2013年05月25日

インドのヒンズー教寺院で2兆円の財宝と超古代兵器ヴィマナを発見!?



「ムー」の6月号の巻頭グラビアP.12〜13に、この記事が掲載されました。ニュースは2011年7月のことで、インドケーララ州のヒンズー教寺院、スリー・パドマナーバスワーミ寺院で1.6兆円の財宝が発見されたというものです。このニュースは一般紙でも報道されました。

日本経済新聞2011年7月5日の記事では次のように報じています。

「1兆6千億円超」の財宝発見 印南部のヒンズー教寺院 2011/7/5 10:00

 インド南部ケララ州の州都トリバンドラムにあるヒンズー教寺院「スリー・パドマナーバスワーミ寺院」の地下室から大量の金貨や宝石などが見つかった。寺院側は200億ドル(約1兆6千億円)以上と主張している。ロイター通信やインド紙タイムズ・オブ・インディアなどが伝えた。

 同紙などによると、150年近く閉ざされたままだった寺院地下の4部屋を調査したところ、金貨約1トン、金装飾品約1トン、ミャンマーやスリランカ産出の大量のダイヤモンド、エメラルドやルビーなどで飾られた神の像などが見つかった。秘蔵の部屋はほかに2部屋あり、さらに財宝が見つかる可能性がある。

 歴史学者は、東インド会社が栄えていたころ、ビャクダンやコショウ、象牙を扱った貿易商が寄進したのではと推測している。(ニューデリー=共同)

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0403X_V00C11A7CR0000/



※スリー・パドマナーバスワーミ寺院の遠景。


※寺院の地下倉庫から発見された黄金の神像。重さ32kg。


※古代の金貨。


※エメラルド、ルビー、ダイアモンド。


※黄金の装飾品、水差しなど。

写真は財宝のほんの一部です。スリー・パドマナーバスワーミ寺院から発見された財宝の一覧はこのサイトが詳しい。

以前から財宝があるのではないかと噂されていたそうですが、実際に倉庫を150年ぶりに開封したところ予想以上の財宝が出現したということです。寺院側の主張する評価額は200億ドル。当時は1兆6千億円でしたが、現在のレートでは2兆円以上の価値になります。また、骨董的価値を含めると4兆円以上の価値になるのではないか、という説もあります。

財宝発見後にケーララ州が寺院の警備のために450万ドル、4億5千万円の予算を組んだこと、寺院を管理する信託財団により目録が作成中であることなどが報道されています。

財宝発見直後より、寺院は警察により24時間体制の厳重な警備が行われています。

※スリー・パドマナーバスワーミ寺院を24時間体制で警備する警察官。

財宝の帰属をめぐっては州政府と、寺院を管理する旧藩王一族のトラバンコール王室の子孫の信託財団の間で税金を含め議論が開始されています。

ここまでは、一般のニュースでも報道されており、ご存じの方も多いでしょう。

ムーの記事ではここから、さらに一歩踏み込んで、倉庫のうち、開封されていないB棟 "vault b"という倉庫に、古代インドの超兵器ヴィマナが保管されているのではないか、というものでした。

左:寺院のピラミッド形の屋根。これもヴィマナと呼びます。 右:飛行装置ヴィマナのイメージCG。

ヴィマナ "vimana" とは、古代インド最古の古典「リグ・ヴェーダ」、叙事詩「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」に登場する飛行船です。様々な種類あり、多くは叙事詩に登場する英雄たちによって戦争などに使用されています。大気圏内はもちろん、大気圏外への航行も可能です。

ヴィマナ "vimana" を詳細に記載した「ヴィマニカ・シャストラ」 "Vaimanika Shastra" という文献があります。ヴィマナの技術情報のみを記載しており、詳細な機体解説と操縦方法が載っています。

ヴィマナの能力としては、レーダー探知、ジグザグ飛行、翼の展開と収縮、敵機内透視、煙幕、カモフラージュ、太陽光線利用等が可能であり、ヴィマナはその用途によって三角形デルタ翼型、円盤型、など数十種類があったといわれています。

※ナスィーヤン・ジャイナ教寺院 "Nasiyan Jain Temple" 黄金のホールに展示されているヴィマナの模型。船のイメージのものが多いようです。

 
※2種類のヴィマナの概念図。

このほかにも、ヴィマナの構造や材質、飛行能力の各種別や、パイロットの訓練といった運用面に至るまで、100ページ以上を割いて細部に渡る記述があります。

古代インドの超兵器、大型UFO、それがヴィマナです。

ヴィマナについては2012年にアフガニスタンの洞窟で発見されたのではないか、というニュースが有名です。

※このニュースのソースとされるyoutubeの動画に使用されている画像。

2012年10月のことです。ドイツのメルケル首相、オバマ大統領、イギリスのキャメロン首相、フランスのサルコジ大統領が相次いでアフガニスタンを訪問しました。

その理由はアメリカ軍がアフガニスタンの洞窟で発見したヴィマナを直接見るためだったといわれています。

ヴィマナは5000年前から時間井戸に捕捉されており、洞窟からこのヴィマナを移動させようと試みた米軍兵士がすでに8人も時空の彼方に消滅してしまったというニュースです。

しかし、このニュースは海外サイトでも信頼できるソースがなく、真偽は全く不明です。

この、古代インドの超兵器ヴィマナが、スリー・パドマナーバスワーミ寺院の開封されていない倉庫のB棟 "vault b" に保管されているかもしれない、というのです。

※スリー・パドマナーバスワーミ寺院のB棟 "vault b" の扉。

見ての通り、蛇神ナーガが恐ろしい姿で扉を守っています。

聖職者の主張によれば、5世紀ほど前に高位のバラモン僧が高度に神聖な「ナーガ・マントラ(蛇神の呪文)」をかけてこの扉を封印したため、これを開封するのには高位の聖職者、ヨギ、サドゥ、バラモン僧などが、「ガルーダ・マントラ(神鳥の呪文)」を唱えて開封する必要がある、というものです。

開封の呪文を唱えずに物理的にロックを開けた場合には、全世界に想像できないほどの災厄が降りかかる、ということです。逆に正しく開封の呪文を唱えることができれば、扉は自然に開くそうです。

しかし、現代ではこの、高度に神聖な「ガルーダ・マントラ(神鳥の呪文)」の詠唱ができる、高位の聖職者が見つからないということです。

また、海外の報道によれば、ここにも相当の財宝が眠っているはずだ、ということで、ヴィマナがあるかも知れない、という記事は見つけることができませんでした。

スリー・パドマナーバスワーミ寺院に残された、B棟 "vault b" 最後の扉。一体、何が納められているのでしょうか。

財宝か、あるいは超古代兵器のヴィマナか。

夢が膨らみます。

【関連リンク】
スリー・パドマナーバスワーミ寺院公式サイト 英語の公式サイト。日本語なし。
パドマナーバスワーミ寺院 - wikipedia 英語サイト。日本語なし。ここが一番詳しい。
パドマナーバスワーミ寺院の不可解な最後の扉 B棟倉庫の呪文による封印についての解説(英語)
ナスィーヤン・ジャイナ教寺院 - wikipedia 英語のみ。ヴィマナ模型の写真多数あり。
ヴィマナ - Wikipedia 古代インドの超兵器ヴィマナについての解説。日本語。

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posted by 桜 真太郎 at 21:39 | Comment(0) | 伝説・ミステリー

2013年05月19日

西郷隆盛 本当の顔 本物の写真 フルベッキ写真 13人撮り写真

 
※一般的な西郷隆盛の肖像写真。

今まで一般的に、西郷隆盛の肖像写真だと思われてきたものについて、近年疑問が投げかけられています。

西郷隆盛の本物写真、本当の顔はどれなのか?

西郷隆盛の姿については、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式に立ち会った、妻の西郷いとが、「うちの人はこげんおひとじゃなか。」と言ったエピソードなどが有名です。

TOPに掲載した2枚の画像は、今まで学校の教科書にも使用されてきた、有名な西郷隆盛のイメージ写真ですが、「フルベッキ写真」の発見以降、本当に西郷隆盛なのか?ということが話題になっています。


これがフルベッキ写真です。※画像クリックで大きくなります。高解像度版はこちら


写っている人物の詳細はこちら。

この写真中央に写っている大柄ないかつい顔の人物が西郷隆盛だというのです。

この人物はまた、会津藩から見つかったいわゆる「13人撮り写真」にも写っており、西郷隆盛説がさらに盛り上がることになりました。

※会津藩で発見された「13人撮り写真」。右端の人物がフルベッキ写真の西郷隆盛と同一人物。

写真を拡大して比較してみましょう。
 
左:フルベッキ写真        右:13人撮り写真

これは同一人物のようです。

しかし、人相判断に勘のいい人はあきらかな違いに気が付くかもしれません。そう耳です。整形でも耳の形は変えにくいとされていますが、このフルベッキ写真と13人撮り写真でもあきらかに耳の形が異なります。

フルベッキ写真の方は耳たぶが伸びて、いわゆる福耳、一般的な西郷隆盛の肖像画に近い耳になっています。一方、13人撮り写真の方はいわゆる平耳です。

このことは13人撮り写真を発見した加治将一氏も言及していて、フルベッキ写真は修正されていると述べています。フルベッキ写真には「写真修正=田中」と書かれており、修正されたことがコメントされています。具体的にどこを修正したのかまでは不明ですが、それが西郷隆盛の耳だった可能性は否定できない、ということです。

後掲する2013年4月の読売新聞の記事に掲載された写真の「西郷隆盛」も平耳に見えます。

さて、はたして、この人物は本当に西郷隆盛なのでしょうか?

この記事TOPに掲載した一般的な西郷隆盛のイメージ写真は、西洋人画家キヨッソーネが親族の写真を合成したモンタージュであるといわれて言ます。

写真の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌だという説が濃厚です。
 
左:西郷従道                 右:大山巌

西郷隆盛と、西郷従道、大山巌の関係は次のようになります。

大山綱広━綱栄━綱道━綱毅━競子
              ┃
              ┣━━┳成美
              ┃  ┣━━━┳高
       西郷隆充┳大山綱昌 ┗誠之助 ┗柏━┳梓━━由美子
           ┃       ┃     ┣桂
           ┗吉兵衛┳隆盛━菊子    ┣檀
               ┗従道       ┗咲子
                          ┃
                          ┃
                          ┃
                 内田耕四郎━━大山健次


ここに、また新たな説があります。

西郷隆盛は暗殺を警戒して写真を残さなかったといわれています。しかし、江戸城の御用写真家で明治天皇の写真も撮影した内田九一が撮影した、薩摩藩士の集合写真に写っている人物が西郷隆盛ではないか、という説です。

「やりすぎ都市伝説2013春」でも、ロバート秋山が紹介していました。

※薩摩藩士を撮影した古写真。右から二人目が西郷隆盛の本当の写真と言われている。


※本物の西郷隆盛の写真。拡大図。

一体どの説が本物の西郷隆盛の写真を示しているのでしょうか?

このような中、2013年4月23日、読売新聞にフルベッキ写真に関する興味深い記事が掲載されました。フルベッキ写真は、従来言われていたような維新志士の写真ではなく、佐賀藩の藩校の生徒を映したものではないか、という説です。

この写真には、フルベッキ写真、13人撮り写真で、西郷隆盛ではないか、といわれていた人物がはっきりと写っています。

※新たに発見されたガラス原版。右端が西郷隆盛とされてきた人物。フルベッキも写っている。

記事全文を引用します。

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒

 佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830〜98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。

 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。

 興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。

 しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。

 原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)

 
 写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)
 写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている(倉持さん提供)

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面


ますます、混沌としてきた西郷隆盛の真の肖像。

みなさまはどの説を支持するのでしょうか?




西郷隆盛 本当の顔の検証 ★2013年12月13日加筆

2013年4月24日の読売新聞の記事で、フルベッキ写真に写っている痩身偉丈夫の男性は西郷隆盛でない可能性が高まりました。そこで、ちょっとだけ調べてみました。

この記事トップ左の画像がいわゆる西郷隆盛のすべての肖像の元になったといわれる、西洋人画家キヨッソーネの作成した肖像画です。これは、キヨッソーネが」西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため西郷従道と大山巌をモデルに合成した、いわゆるモンタージュ写真です。

※キヨッソーネの作成した西郷隆盛の肖像。

この後、西郷隆盛の顔はほとんどが、この肖像画を模写したものであり、西郷隆盛本人に会って描いた画像は少ないとさ言われています。

参考にいくつかのイラストを挙げてみます。


この画像はフランスの新聞、ル・モンドが西南戦争を報道した時のイラストです。中央に描かれているのが西郷隆盛ですが、これは西郷隆盛とされている顔のどれとも似ていません。


この画像は幕末の安政5年に、西郷隆盛(西郷吉之助)、高杉晋作、平野次郎を手配した人相書きです。これは、かなり特徴を捉えていると思います。


※西郷隆盛の人相書きのアップ。

色々調べていくと、平成15年に大分県日田市で西郷隆盛の新たな肖像画が発見されたというニュースがありました。描いたのは平野五岳。明治天皇に詩を献上したことがあり、また、ウィーン万博に南画を出展するなどの実績がある高名な画家です。

その平野五岳が、明治九年(1876)十月、鹿児島を訪れた折りに西郷と面会した時の姿をそれから十年後に描いた肖像画です。


西郷の肖橡画は数多くありますが、実際に西郷に面会できた者が描いた物は極めて少なく、五岳が西郷と面会したのが西南の役勃発の直前のことであり、西郷の最晩年の姿としても貴重な資料となっています。

また、海外サイトを探していたら、フランスの古写真、古美術を扱うサイトで西郷隆盛の絵葉書を見つけました。この顔も平野五岳の描いた肖像に似ています。この絵葉書は日本語サイトにはありませんでした。


西郷隆盛の顔が一般に知られているものと異なる根拠として良く挙げられるのが、妻の西郷糸子(イト)が上野公演の銅像の除幕式に参加したときのエピソードです。

除幕式に立ち会った糸子は銅像を見て、「こげなお人じゃなかったこてえ。」「浴衣を着て散歩なんかしていなか!」と抗議ともとれる発言をしました。

実は、これは顔が違うということではなく、浴衣を着て犬を連れて散歩している姿の銅像に抗議をしたというのが真相のようです。

西郷隆盛は明治4年(1871年)に参議として新政府に参画し、その後、陸軍大将・近衛都督を兼務しています。新政府樹立の立役者であり、位人身を極めた英雄の夫が、浴衣で犬を連れた姿で銅像になっていることに驚いたということです。

フルベッキ写真の西郷隆盛新顔説は興味深いものでしたが、西郷さんの顔は従来知られてきたものと考えて良さそうです。

【関連リンク】
西郷隆盛 - Wikipedia まずはここから。
フルベッキ群像写真 - Wikipedia いわゆる「フルベッキ写真」の解説。
日本の歴史新聞 2003(平成15)年8月、西郷隆盛の肖像画が、大分県日田市で発見された解説。必見。

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posted by 桜 真太郎 at 17:28 | Comment(6) | 日本史の謎