2012年10月01日

大東流合気柔術成立の謎と武田惣角

合気道の源流となった武術、大東流合気柔術。

中興の祖と言われる、武田惣角によって明治時代に講習会形式で日本に広まりました。

しかし、その成立は謎に包まれています。

会津藩御留流(あいづはんおとめりゅう:会津藩以外には門外不出)として、会津藩の上級武士に密かに伝わった武術を武田惣角が授かって、広めたと言われていますが、現在その説を信じる人は少ないようです。

現在は武田惣角が学んだ武術の集大成を、大東流の名を冠して広めたとする説が有力です。

武術は突然生まれることはありません。長い伝統を持ち伝わってきた技術を、これもまた長い時間をかけ習得した個人が、流派の伝統を守りつつ少しだけ技を付け加えたり、あるいは、集大成して一流一派を起こしていくのが日本の伝統武術のあり方です。

これは、競技スポーツとなった柔道、剣道も同じです。柔道は複数の柔術の技術の集大成、剣道も剣術の技術の集大成です。

この視点から大東流を見ると面白いことがわかります。

Wikiから修行歴を引用します。

「幼少期から武術の修行に勤しみ、相撲、柔術、剣術(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。13歳の時、父を説得して上京した惣角は、父の友人であった直心影流男谷派剣術の榊原鍵吉の内弟子になった。ここで剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。」

ここで注目すべきは、明治6年に榊原鍵吉の内弟子になり、明治8年に会津に帰るまでの期間の修行です。サッカーなどのスポーツでいえばゴールデン・エイジの吸収力の盛んな時期に、最後の剣豪と言われた直心影流、榊原鍵吉の内弟子となっています。

ここからは私の仮説です。

直心影流、榊原鍵吉は撃剣興行、明治兜割りの逸話で有名な最後の剣豪と言われる人物です。廃刀令が出た後も、死ぬまで髷を結い、刀を帯びていた、まさに、ラスト・サムライです。

直心影流は、「直 新陰流」であり、二代伝人は上泉伊勢守秀綱です。「新陰流」と言えば柳生が有名ですが、直心影流も新陰流です。

上泉伊勢守と柳生の逸話で有名なものがあります。時代小説ファンならすぐに思い浮かぶでしょう。

剣術の術理を極めた上泉伊勢守ですが、生きている間に、どうしても完成しなかった技術があります。

それが「無刀取り」。「無刀取り」の完成は弟子、柳生宗厳に課せられました。その結果、新陰流は柔術の体さばきを術理に取り入れ、素手で相手の刀を取る「無刀取り」を完成させます。「無刀取り」は柔術の技とも言えるでしょう。そのため新陰流から起倒流、柳生心眼流、小栗流などの柔術諸流派が生まれています。

そう、武田惣角は榊原道場の内弟子であった間に「無刀取り」の極意を会得し(あるいはヒントをつかみ)、その術理を基に新たに起こした流派が大東流合気柔術だったのではないでしょうか。

その証拠があります。

武田惣角が、霊山神社の宮司をしていた保科頼母(元会津藩家老・西郷頼母)より「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の講習を始めたのが明治31年(1898年)です。

師である榊原 鍵吉が没したのが明治27年(1894年)。

師匠の生きている間は、極意の公開、伝授が憚られたものの、死後4年が経過して、(ほとぼりが冷めた頃)自流を起こしたと考えることができます。

大東流合気柔術は数多くの伝説的な名人を輩出しています。佐川幸義、植芝盛平(合気道の開祖)、塩田剛三などが挙げられます。

以上、簡単ですが、大東流成立の仮説を書いてみました。

追って、加筆訂正して、関連リンクを追加していきます。

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posted by 桜 真太郎 at 21:24 | Comment(1) | TrackBack(0) | 武術の達人

2011年07月31日

達人 上原清吉 本部御殿手

 
35歳フィリピン時代の写真        1990年代80歳代の写真(DVD表紙)

1990年代初頭の古武術ブームの際に「消える居合」の黒田鉄山氏と並んで、もう一人の武術の達人が世に知られることになりました。

それが本部御殿手(もとぶうどぅんでぃー:もとぶうどんで)の第12代伝承者、上原清吉氏です。

本部御殿手とは文字の通り、本部:本部家に伝わる、御殿:琉球王家の、手:空手、唐手のことです。

雑誌「秘伝」に記事が掲載され、ビデオが発売されると、その動きに皆が驚きました。

(ビデオは例によって神田神保町書泉ブックマートの最上階に買いに行くわけです。)

膝を伸ばした姿勢で何気なく相手に向かって歩いているだけ(のように見える)なのに、相手は何もできずにバタバタと倒されていきます。

秘密は「先の先」で相手の中心を押さえ、特殊な歩法で相手の間合いを崩し、無拍子の動きで急所を一撃しているため、相手は何もすることができずに倒されてしまう、ということです。

上原氏の武は完成の境地に達しているため分りにくく、判りやすい関節技の評価が高いようですが、私は武器を持った多人数取りが真骨頂であると思います。ビデオとはいえ、真の名人の動きを見ることができるのはこの上ない幸せです。

人がそこまでの高みに上れることを実際に見ると見ないのでは大きな違いがあります。一目見ておけば、自分がそこまで行くことができる可能性が大きく上がると思います。

もちろん、理解することが難しい達人の論評が困難なことは十分に承知しています。

今の日本、あるいは世界でこの境地に達している武術家が何人いることでしょう。

この動画がわかりやすいと思います。


私個人の分析なので、不十分な部分はあるかも知れませんが、概ね正しい解釈であると思います。お気づきの点があればコメントをお願いします。

また誰にでもわかりやすいのが「取手」であり関節技を使用した制圧術です。

こちらもまず動画をどうぞ。


合気道、大東流合気柔術と同じ術理で相手を制圧しています。

これは誰にでもわかりやすい映像なので、こちらのほうで上原清吉氏の凄さを実感した人も多かったと思います。

合気道、大東流で最も大切なポイントのひとつが相手に合気をかけることですが、これほどわかりやすく合気がかかっている映像は1990年代当時少なく、貴重なものでした。合気系武道の修行者は目を皿のようにして動きを盗もうと努力したものです。

本部御殿手、上原清吉氏の来歴については公式サイトに詳しく書かれていますので、この記事では紹介しませんがおきなわBBtvに簡潔にまとまった記事がありますので引用させていただきます。

空手と人物7 -上原清吉-
上原清吉上原清吉は師の本部朝勇と、剛健と言われたその弟・本部朝基からも教えを受けている。上原清吉がその晩年に弟子たちに語ったと言われる「実戦空手を基盤として修錬を積み重ねてきた朝基先生との組手は練習の中でも最も大変だった。」という話は本部朝基の一面を伝えていておもしろい。

上原清吉は1924年(大正12年)に師の命を受け和歌山県へ渡り、師・朝勇の二男・本部朝茂に師から受け継いだ本部御殿手を伝授している。

1926年(大正15年)に当時多くの日本人が入植していたフィリピン・ダバオに移住した。そこで太平洋戦争が勃発する1941年(昭和16年)まで道場を開き、空手と琉球古武術を指導していた。また大戦中は軍属として徴用され、参戦した。戦後沖縄に帰郷した清吉は宜野湾市で武術指導を再開し、1961年(昭和36年)に正式に流派名を「本部流」とし、本部流古武術協会を設立した。また比嘉清徳(武芸館)、祖堅方範(小林流松村正統)、島袋善良(小林流聖武館)、兼島信助(渡山流)たちと共に沖縄古武道協会を結成した。

1982年(昭和57年)、上原清吉は「全沖縄空手古武道連合会」の会長に就任した。当時は沖縄でもまだ本部御殿手は上原門下以外ではほとんど知られていなかった。1984年(昭和59年)、弟子の池田守利のすすめで「日本古武道協会」へ加盟、本土でも本部御殿手を公開、全国への普及を始めた。

上原清吉は2004年(平成16年)、101歳の天寿を全うした。
本部御殿手は、本部朝基の子息で本部流宗家・本部朝正が継承し、再び本部家に戻った。

琉球王家の一族に伝わる本部御殿手を失伝させないため、若くから英才教育を受け、部外者として初めて一子相伝の秘伝武術の伝承者となる。それを自分の代で多くの人に普及させ、武名を高め、再び宗家の一族に技を返し、その翌年に101歳で天に帰る。普段は穏やかであるが有事の際は身に着けた武術で自らの命をつなぎ止める。

武人はかくあるべし、という見事な生き様です。

上原氏は、太平洋戦争中従軍し、刀1本で何度も危地を乗り越えたそうです。武術は家族・国家が危急の時に護身のために使用するものとはいえ、師匠から授かった武術を実戦で使用したことに対し上原氏はショックを受け、戦後しばらくの間、自らの武を封印していました。

本当に心優しい、武術の達人を物語るエピソードだと思います。

90年代の古武術ブームの時にテレビ出演をしていましたが、自分も高齢なので早く宗家の一族に技を返したい、ということを話されていました。この記事を書くために上原氏のことを調べて、初めて宗家の一族に技を返したこと、鬼籍に入られたことを知りました。

記事を書くために、本部御殿手の動画を見ましたが、若い世代にも確実に正しい技が伝えられています。公式サイトを見ると組織もしっかりとできているので、この貴重な文化遺産は永く後代に伝えられていくものと思います。

最後にひとつだけ書いておきたいことがあります。

上原清吉氏が世に出た時にはすでに80代の高齢であり、その武は完成されており舞の境地に達していました。しかし、今回記事を書くために色々調べたら、Wikiに35歳当時の写真が掲載されており、かなわぬ願いですがそのころの動きを見てみたいと思いました。

35歳の上原氏は筋骨隆々のキリッとしたイケメンでちょっと驚きました。(笑)

上原氏は自身の著書『武の舞 琉球王家秘伝武術「本部御殿手」』の中で、35歳を過ぎたら武術を剛から柔へ変化させていく、ということを書いており、その剛が極まった武を一目見たかったと思います。

【関連リンク】
日本傳流兵法本部拳法・本部御殿手 公式サイト。充実した内容です。
上原清吉 - Wikipedia 公式サイトに載っていないエピソードなどがあります。

【関連書籍】

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posted by 桜 真太郎 at 16:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 武術の達人