中興の祖と言われる、武田惣角によって明治時代に講習会形式で日本に広まりました。
しかし、その成立は謎に包まれています。
会津藩御留流(あいづはんおとめりゅう:会津藩以外には門外不出)として、会津藩の上級武士に密かに伝わった武術を武田惣角が授かって、広めたと言われていますが、現在その説を信じる人は少ないようです。
現在は武田惣角が学んだ武術の集大成を、大東流の名を冠して広めたとする説が有力です。
武術は突然生まれることはありません。長い伝統を持ち伝わってきた技術を、これもまた長い時間をかけ習得した個人が、流派の伝統を守りつつ少しだけ技を付け加えたり、あるいは、集大成して一流一派を起こしていくのが日本の伝統武術のあり方です。
これは、競技スポーツとなった柔道、剣道も同じです。柔道は複数の柔術の技術の集大成、剣道も剣術の技術の集大成です。
この視点から大東流を見ると面白いことがわかります。
Wikiから修行歴を引用します。
「幼少期から武術の修行に勤しみ、相撲、柔術、剣術(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。13歳の時、父を説得して上京した惣角は、父の友人であった直心影流男谷派剣術の榊原鍵吉の内弟子になった。ここで剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。」
ここで注目すべきは、明治6年に榊原鍵吉の内弟子になり、明治8年に会津に帰るまでの期間の修行です。サッカーなどのスポーツでいえばゴールデン・エイジの吸収力の盛んな時期に、最後の剣豪と言われた直心影流、榊原鍵吉の内弟子となっています。
ここからは私の仮説です。
直心影流、榊原鍵吉は撃剣興行、明治兜割りの逸話で有名な最後の剣豪と言われる人物です。廃刀令が出た後も、死ぬまで髷を結い、刀を帯びていた、まさに、ラスト・サムライです。
直心影流は、「直 新陰流」であり、二代伝人は上泉伊勢守秀綱です。「新陰流」と言えば柳生が有名ですが、直心影流も新陰流です。
上泉伊勢守と柳生の逸話で有名なものがあります。時代小説ファンならすぐに思い浮かぶでしょう。
剣術の術理を極めた上泉伊勢守ですが、生きている間に、どうしても完成しなかった技術があります。
それが「無刀取り」。「無刀取り」の完成は弟子、柳生宗厳に課せられました。その結果、新陰流は柔術の体さばきを術理に取り入れ、素手で相手の刀を取る「無刀取り」を完成させます。「無刀取り」は柔術の技とも言えるでしょう。そのため新陰流から起倒流、柳生心眼流、小栗流などの柔術諸流派が生まれています。
そう、武田惣角は榊原道場の内弟子であった間に「無刀取り」の極意を会得し(あるいはヒントをつかみ)、その術理を基に新たに起こした流派が大東流合気柔術だったのではないでしょうか。
その証拠があります。
武田惣角が、霊山神社の宮司をしていた保科頼母(元会津藩家老・西郷頼母)より「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の講習を始めたのが明治31年(1898年)です。
師である榊原 鍵吉が没したのが明治27年(1894年)。
師匠の生きている間は、極意の公開、伝授が憚られたものの、死後4年が経過して、(ほとぼりが冷めた頃)自流を起こしたと考えることができます。
大東流合気柔術は数多くの伝説的な名人を輩出しています。佐川幸義、植芝盛平(合気道の開祖)、塩田剛三などが挙げられます。
以上、簡単ですが、大東流成立の仮説を書いてみました。
追って、加筆訂正して、関連リンクを追加していきます。
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