2013年08月17日

ジョー・マクモニーグルが古代天皇(神武天皇)を透視する


※学研「ムー」2010年12月号

FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルの古代日本透視シリーズ第二弾が2010年12月号の学研「ムー」に掲載されました。

日本最初の天皇とされる神武天皇を遠隔透視で探りました。前回の卑弥呼透視との関連もあり、興味深い内容でした。

以下、概要のまとめです。

●神武天皇の出自
初代の天皇とされる神武天皇は中国大陸より日本に渡来した。名前はムイジン。中国甘粛省付近にルーツを持つ部族であり、騎馬遊牧民族である。

旅はムイジンの父の時代に始まった。ムイジンの父は遊牧民族の長でかなりの勢力を誇っていた。しかし、その地域を治めていた武将が邪悪な人物に入れ替わったことで住み慣れた土地を離れることになった。

ムイジンの一族は黄河沿いに船団を組みゆっくりと東に移動していった。独立した裁判官として地域の紛争を収め、盗賊の退治などをしていったという。旅をしていくうちに一族の評判は上がって行った。

ムイジンはそのような生活の中、法と武術を学びながら強靭で屈強な男へと成長していった。ムイジンは生涯で6人の妻を娶ったという。

●疫病と戦いによる一族の疲弊
ムイジン45歳の時一族の滞在していた付近を疫病が襲い、また海賊との戦いで多くの家族を失った。疲弊した一族は友好的な武将のもとにこれまでになく長く滞在した。西暦256年〜258年頃にその地域で戦争が始まり、ムイジンの一族も保護をしてくれた武将とともに戦ったが戦いは長く壮絶なものとなり、ムイジンの父親が矢を受けて負傷し、その後亡くなった。ムイジンは57歳で一族を率いることとなり、その半年後に戦いを終結させた。

●皇帝からの召喚
戦争終了後、ムイジンの一族に興味を持った皇帝(の母親)から召喚され、身近な家族と家臣を伴い皇帝のもとへ向かった。それはムイジンが59歳の誕生日を迎える直前のことであった。

皇帝と謁見したムイジンであったが、皇帝の母親はムイジンに対して尊敬の念を抱いたが皇帝はそうではなく、ムイジンを宮廷から引き離すことを画策していた。

そこで当時紛争が起きていた、朝鮮半島南部へムイジンを和平の交渉役として派遣した。皇帝への忠誠の証として、妻と息子、娘たちを皇帝の許に人質として残すことを強要された。

●朝鮮半島の平定
西暦260年頃、朝鮮半島へ旅立ったムイジンは当時覇を競っていた三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の紛争を収め、家族を身替りと入れ替え取戻し、皇帝の追手がかかる前に朝鮮半島を後にし東の新天地を目指した。

●日本への上陸
ムイジンの一行が上陸したのは長崎県、橘湾の牧島付近であった。ここを足掛かりに九州中部を支配下に収めた。それまでには4回、大きな戦闘があったが、ムイジンは相手を全滅させることなく征服した先住民を自分の部族に組み入れ、臣下としたという。

九州中部を手に入れ安定した生活が得られると、ムイジンは権力の座から身を引き、息子のジュジモ "Jujimo"に部族の長を任せた。

マクモニーグルは神武天皇を透視したが、実は神武天皇は一人ではなく、ムイジンとジュジモという二人の人物であった。

とりあえずここまでです。

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posted by 桜 真太郎 at 18:12 | Comment(0) | 日本史の謎

2013年07月13日

ジョー・マクモニーグルが邪馬台国と卑弥呼を透視する

 
左:邪馬台国発見―FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルのサイキック考古学
右:学研「ムー」2008年3月号 ※画像クリックでAmazonに飛びます。

2008年3月号の学研「ムー」にこの記事が掲載されました。

FBI超能力捜査官として高名なジョー・マクモニーグルに古代日本の謎を透視させるという胸が躍るような企画です。

以下、概要のまとめです。

透視年月日 2007年9月18日

卑弥呼の墓
山口県下関市豊田町の安徳天皇西市陵墓参考地に卑弥呼が眠っていると断言。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。5人の豪族が埋葬されており西暦180年〜190年頃のものである。

壱与の墓
奈良県広陵町馬見丘陵公園内の巣山古墳。

卑弥呼の姿
大変長命であった。71〜73歳くらいまで生きた。41〜63歳くらいまでの間が最も美しく力に満ちた時代であり尊敬され影響力があった。

身長157cm、体重55.3kg。目の色はスティールグレー(鉄灰色)。髪は腰まであり、長くストレートでカラスのような黒髪。爪は3.8cm〜5.1cmで赤く塗られている。足は小さいが纏足をしているわけではない。肌の色はアイボリー(象牙色)。

小柄で華奢なようだが、現代の基準でみると若干太り気味。しかし、当時はこの体系が最も美しいとされていた。

髪の毛はとても長かったが頭の上に高く巻き上げ黄金のかんざしで止めていた。中年に至っても顔にはほとんどしわがなく年齢を推測するのが非常に困難であった。話し声はやわらかで優しさを漂わせていたが相手に質問をゆるさない断固とした口調であった。

シャーマンであり部族連合のリーダー的存在であった。結婚もしておらず子供もいない。

普段はゆったりとした足首まであるローブのような服を着て生活していたが、戦(いくさ)の時には弓矢を持ち、裾をたくし上げた姿で戦場に臨んだ。

卑弥呼の居城
卑弥呼は夏と冬で居城を変えていた。


奈良県桜井市鳥見山。ここで部族連合の長としての統治をおこなっていた。魏志倭人伝にいう邪馬台国の位置はここである。


山口県下関市豊田町の豊田湖畔。卑弥呼はここの部族の出身。冬に里帰りをしていた。

邪馬台国の位置
部族連合の長として統治を行っていた奈良県。ただし邪馬台国の勢力圏は三重、岐阜、京都、石川以西の西日本すべて。九州、四国も含む。

卑弥呼の出身種族の名前Yamata、Yamato、Yamatayoのいずれかであるが、Yamatoが最も可能性が高い。

卑弥呼の部族は中国雲南省昆明付近に源流があり、ハノイ、ハイフォン、マカオ、台北、奄美大島、熊本、福岡を経由して山口県に移動してきた。

部族の移動した場所には「ヤマト」の地名が残されている。熊本県上益郡山都町(九州で最初の上陸地)、長崎県佐世保市大和町、佐賀県柳川市大和町、白石町大字牛屋大和、佐賀市大和町、鳥栖市大和町(この付近に最初の恒久的な入植地を設営)、福岡県西区下山門・上山門、山口県下関市大和町、油谷向渾興下大和(卑弥呼生誕地付近)などである。

マクモニーグルの透視説をとれば、邪馬台国の名はそのまま、大和に引き継がれたということになります。




邪馬台国の位置を巡ってはいまでも論争が続いていますが、大きく分けると九州説と機内説の二つになります。

ヤマタイ(邪馬台)が、ヤマト(大和)に変化したという説は無理がありませんし、 卑弥呼(ヒミコ) = 日巫女 = 日の巫女(ひのみこ) = 天照大神(アマテラスオオミカミ)と考えるのも大きな違和感は感じません。

マクモニーグルの説は本当に面白いと思います。

追って、画像、地図等追加していきます。

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posted by 桜 真太郎 at 10:28 | Comment(0) | 日本史の謎